はじめに
港区に愛宕山という山がある。
標高は25.7mしかないが、自然地形の山としては都内最高峰となっている*1。
この山は江戸の頃から「伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月参り」(最後は「愛宕様へは月参り」とも)と言われ、多くの錦絵に描かれているほどの人気がある(上の画像は昇亭北寿画『東都芝愛宕山遠望品川海図』)*2。
また明治以降では、『鉄道唱歌』1番の「汽笛一声新橋をはや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる月を旅路の友として」という歌詞でも有名だ。
そんな愛宕山には、江戸時代から愛宕神社が鎮座している。
周辺は再開発が進んでいるし、愛宕神社境内も再整備が進んでおり、これからどんどん新しく生まれ変わっていくエリアだ。
因みに、上の写真左側の工事現場仮囲いの辺りが前々回の記事で書いた大雄院の旧所在地だ。
正面にある本殿へと向かう急な石階段は「出世の石段」と呼ばれ、出世を祈願する人々に人気がある男坂だ。
これは江戸幕府3代将軍・徳川家光が付近を通った際に、愛宕山山頂の梅を馬で上り下りして取ってくることを所望するも幕臣達が軒並み尻込みしていたところ、丸亀藩家臣・曲垣平九郎が見事成し遂げて「日本一の馬術名人」と讃えられたという逸話による*3。
なお曲垣平九郎以降の石段騎馬上下達成者としては、明治15年(1882年)の馬術師・石川清馬、大正14年(1925年)の参謀本部馬丁・岩木利夫、昭和56年(1981年)のスタントマン・渡辺隆馬が知られている*4*5。
愛宕神社
愛宕神社社殿
由緒書の掲示によれば、愛宕神社は江戸幕府開府と同年の慶長8年(1603年)の創建で、徳川家康が開府に際して防火の総鎮守として建立したことに始まる。
のち江戸大火災(『東京都神社名鑑』では「嘉永2年(1863年)」とするが、嘉永2年は1849年であり、1863年は文久3年のため詳細不明)、大正12年(1923年)の関東大震災、昭和20年(1945年)の東京大空襲によりそれぞれ焼失するも、都度再建された*6。
境内の掲示によると、御祭神は火産霊命を主祭神とし、更に罔象女命・大山祇命・日本武尊・勝軍地蔵菩薩・普賢大菩薩・天神社も併せて祀られている。
勝軍地蔵菩薩は行基の作と伝えられる徳川家康の持仏であり、勝運と出世に御利益があるとされる。
普賢大菩薩は辰年と巳年の守り本尊であるらしい。
天神社は学業に御利益があるとのことなので、御祭神は菅原道真公だろうか。
招き石
愛宕神社社殿の手前には、撫でると福が身につくという招き石が祀られている。
愛宕神社HPやGoogleマップ等に載っている過去の写真には招き石についての看板が立っていたのが分かるが、今回現地に行くと何も無かったため最初はこの石が何なのか分からなかった*7。
殉皇十二烈士女之碑・弔魂碑
愛宕神社社殿横には殉皇十二烈士女之碑と弔魂碑が並んで建っている。
これは昭和20年の終戦の際に、終戦反対の立場だった政治団体構成員が内大臣・木戸幸一邸襲撃に失敗した後、愛宕山に立て籠もり手榴弾で自決した「愛宕山事件」の死亡者の慰霊碑だ。
この事件の死者は10名だったが、5日後に同じ場所で2名の夫人が後追いで自決したため「十二烈士女」ということらしい。
太郎坊神社
愛宕神社社殿右手には3つの末社が並んでいるが、一番左側にあるのが太郎坊神社だ。
創建年は不明ながら、昭和20年の東京大空襲に際しては他の社殿等の一切が焼失する中、太郎坊神社だけが残っていたとのこと*8。
御祭神は猿田彦神を祀っており、開拓・旅行に御利益があるとされる。
愛宕太郎坊はそもそも愛宕神社の総本社のある愛宕山に住む大天狗であり、それが猿田彦神と習合したようだ。
福寿稲荷社
愛宕神社社殿横中央にあるのは福寿稲荷社だ。
創建年は不明。
御祭神は宇迦御魂神を祀り、福徳開運十種の神として衣食住・農工商に御利益があるとされる。
龍神
境内には鯉のいる池があるが、その池に水が注ぐ水源の辺りに金色の鳥居があり、その奥に祠が祀られている。
由緒書等は特に無いため詳細は分からなかったが、社務所で尋ねたところ龍神を祀っているとのことだった。
石仏
庚申塔から更に奥へと進むと、石仏が5尊纏めて祀られている場所がある。
地蔵尊らしき奥の石仏が一番大きく、1mほどは高さがある。
手前の石仏のうち、地蔵尊らしき右の2尊は小さめだ。
特に右から2番目はミニサイズの可愛いらしい地蔵尊となっている。
右から3番目の石仏も地蔵尊だろうか。
光背がある分少し高さがある。
そして一番左はここに祀られているからには石仏なのだとは思うが、よく見ると顔が幾つも付いている。
一体どういった像なのかは全くもって不明だ。
【愛宕神社】
住 所:東京都港区愛宕1-5-3
御祭神:火産霊命 外6柱
社祠等:太郎坊神社 外多数
創 建:1603年9月24日
H P:愛宕神社HP