東京・関東巡り:記事一覧
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Tokyo, Go!
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穴八幡宮
社殿
穴八幡宮は源義家*1が創建したと伝わる、1000年近くの歴史がある神社です。
御祭神は應神天皇、仲哀天皇、神功皇后の3柱。
境内の掲示によると、この神社の由緒は以下の通りです。
穴八幡宮御由緒
≪御祭神≫ 應神天皇・仲哀天皇・神功皇后
≪御由緒≫
康平五年(一〇六二)奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の折り、日本武尊命の先蹤にならってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請し、永く東北鎮護の社として祀られました。
寛永十八年(一六四一)宮守の庵を造るために南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、この時期から穴八幡宮と唱えられるようになりました。同年この地に居住していた幕府の祐筆大橋龍慶が方百間の地を献じ、社殿を壮大に造営しました。この頃神木の松から瑞光を放ち、色々奇瑞のあったことが、三代家光将軍の上聞に達し、当社を江戸城北の総鎮護として総営繕を命ぜられました。
慶安元年(一六四八)社殿再興の折りに幕府から氏子として牛込郷三十六ヶ町が定められ、翌年の慶安二年(一六四九)社殿を始め数々の殿舎が竣工し、八千八百余坪の境内地に壮麗な建物が櫛比して将軍家祈願所としての規模も整い、以後江戸屈指の大社として重んぜられました。その後も幕府により数次にわたって造営・営繕が行われましたが、特に元禄十六年(一七〇三)の造営は、江戸権現造り社殿として壮麗を極めました。
安政元年(一八五四)青山火事のために類焼し、幕府より造営料などが奉納されましたが、幕末の多事と物価高騰のため仮社殿のまま明治維新を迎えました。その後、昭和初年に旧事の盛観に復しましたが、今次大戦により社殿はことごとく罹災しました。しかし戦後はいち早く仮社殿により再興し、その後崇敬者の御芳志等により平成元年から慶安・元禄の江戸権現造りの当社設計絵図を基に御本殿御社殿の造営をはじめ、平成十年の随神門竣工をもちまして往時を偲ぶ姿に復し、引き続きその他の再建、また境内地の整備に着手し今日に至っています。
≪御由緒≫
例大祭 九月十五日
夏 祭 五月十五日
春 祭 一月十五日
神事流鏑馬 十月体育の日
冬至祭 十二月冬至日
節分祭 二月節分日
月例祭 一日 十五日 二十八日
布袋尊像
顔がとても優しそうです。
像の前に「布袋尊記」と題された石碑が建っており、それによれば
布袋尊記
穴八幡宮は康平年間八幡太郎義家が奥州の亂を夷げ凱陣の途に創祀す。慶安元年三代將軍德川家光江城鎭䕶の爲宏壯なる社殿を再興幕府の祈願所として重んぜらる。明治維新の後は皇室歴代の御蟲封を謹修し奉る。神德彌光を増し崇敬年々數を加う。手水舎は昭和二十年の戰災にて本社諸殿宇と同時に類燒し延寳再建の時大森信濃守の奉納せる巨水盤亦破碎し了ぬ。今茲氏子崇敬者の篤志に依て手水舎の新築成就す。内に境内南麓靈窟の傍に磐座せし布袋の尊像を移して安置せり。この像は始め江戸城吹上の御庭にありしを慶安二年社殿竣工の節家光將軍奉納に係る東都隨一の靈像にして古來信仰者最も多し。もと手水鉢たりし由縁を以て此所に移すに當り縁起を畧述して碑に刻す。
昭和四十四年九月𠮷日 穴八幡神社宮司 齋藤直成題並誌
とのことです。