<2023年11月 記事内容改訂>
はじめに
今回は将門塚の参拝記。
改修工事前、改修工事中、改修工事後のそれぞれにの時期に参拝することができた。
将門塚
まず平将門公といえば桓武天皇5世孫で承平天慶の乱を起こした東国の覇者、そして神田明神の御祭神としても有名だ。
由緒書によれば、乱に敗れ京都で晒し首にされるも、首は遥か東方へと飛び帰りこの地に落ちたとされる。
そして首が落ちてからは、天地が鳴動し暗夜のように真っ暗になったため、これを畏れた土地の人が首を弔う塚を建立した、というのがこの将門塚の始まりとのこと。
この話に従うなら、将門塚の建立年は鎮圧の天慶3年(940年)ということになるだろう。
徳治2年(1307年)には真教上人(時宗開祖・一遍上人の弟子で第2代遊行上人)が将門公に「蓮阿弥陀佛」の名を贈り、その後日輪寺(現在は浅草に遷座)での供養と神田明神での奉祀が行われるようになったらしい(先日の改修工事完了の時も両寺社により式典が行われている)。
現在では、将門塚は皇居の近くで高層ビルに囲まれながらもその長い歴史と伝説を今に伝えている。
2019年10月19日参拝
最初にこの場所に参拝したのは令和元年(2019年)のことだ。
この時は「南無阿弥陀佛」が刻まれた石碑の後ろの石塔は透明なガラスケースに覆われていた。
また、塚の周囲には将門公の首が東に「帰る」ことに掛けて蛙の置物が多数置かれていた。
そして由緒書の掲示も上の写真の通りだった。
2020年11月28日参拝
参拝日の数日前から境内の第6次改修工事が開始され、立入禁止となった。
境内に立ち入れない代わりに、工事現場の囲いの一部に神棚が置かれ、簡易版の参拝所となっていた。
参拝所の下部には賽銭投入口も設けられている。
2021年9月4日参拝
将門塚の工事は令和3年(2021年)4月26日に竣工した*1。
敷き詰められた砕石の上を、太鼓橋と名付けられた石橋が渡されている(正確には、手前側の石畳には少しだけ橋が食い込んでおり、塚側の石畳へは少しだけ届いていない)*2。
橋の幅は1082mm(令和3年の将門公1082回忌に由来)、手前側の石畳への食い込みは214mm(将門公命日の2月14日に由来)、塚側の石畳との隙間は37mm(将門公戦没時の年齢の37歳に由来)となっている*3。
橋の正面の岩は将門塚に古くからある千鳥岩で、その下には将門公戦没地・國王神社と将門公胴塚伝承地・神田山延命院(共に茨城県坂東市)の土が埋められている*4。
「南無阿弥陀佛」の石碑は変わらないが、石碑の後ろの石塔は透明なケースは外されていた。
また、由緒書の掲示も新しくなっていた。
どちらも「令和三年」の文字が書かれている。
【将門塚】
住 所:東京都千代田区大手町1-2-1
被葬者:平将門公
社祠等:無し
建 立:940年
H P:史蹟 将門塚保存会