はじめに
先日、法事のため山陰地方に行く機会があった。
当日は羽田空港からのフライトだ。
降り立った米子鬼太郎空港の荷物受取場では、目玉のおやじが迎えてくれる。
到着したのは夜だったのでそのままホテルへと直行。
翌日は朝から4年前にも参拝した粟嶋神社へと向かった。
粟嶋神社は米子駅から車で10分ほど北西に向かった位置にある。
現在でこそ粟嶋は地上から地続きで行くことができるが、宝暦年間(1751年〜1764年)に干拓されるまでは中海の小島であり、参拝者は旧第一鳥居(現在の米子市彦名町1238付近)から小舟で粟嶋へと向かっていたらしい。
標高36mの山の頂上にある社殿に参拝するには、急な187段の階段を上らねばならない。
油断していると意外と脚にくるので注意が必要だ。
さて、そんな今回の粟嶋神社のマップは上掲の通りとなっている。
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粟嶋神社
随神門
まず階段を上り切ると目の前には随神門が現れる。
随神門には櫛岩窓神と豊岩窓神の御神像が祀られている。
貼紙によれば、参拝時は格子戸を開けて良いらしい。
なお、前回参拝した際には片方の御神像の首が取れてしまっていて見た時にはドキリとしたものだが、どうやら令和元年(2019年)に新しい御神像に替わったらしい。
粟嶋神社社殿
社務所で頂ける由緒書によれば、御祭神は少彦名命・大己貴命・神功皇后・高皇産霊神・神皇産霊神・菅原道真命・外2柱とある*1。
次に鳥取県神職会が昭和9年(1934年)に発行した『鳥取県神社誌』によれば、御祭神は少彦名命・大己貴命・高皇産霊神・神皇産霊神・稲背脛命・菅原道真公・宇牟伎比売命とある*2。
このことから、由緒書で外2柱とされていたのは稲背脛命と宇牟伎比売命ではないかと思われる。
創建年は不明とされるが、大正14年(1925年)に発行された『噫炎上せる粟嶋神社』によれば「少彦名命御躬ら此処に宮処を卜し給ひし」とあり、すなわち少彦名命が占って当地に宮を定めたとされている*3。
この地は少彦名命の最後の伝承を伝える地でもある。
『伯耆国風土記』(逸文、『釈日本紀』にて引用)によれば、少彦名命はよく実った粟に上った際に弾かれ、粟嶋の地から常世の国へと渡ったと伝えられている*4。
また『日本書紀』の第8段第6の一書では現・松江市の熊野の御碕から常世の国へ渡ったとされているが、更に別伝として粟嶋から常世の国へ渡ったとも書かれている*5。
更に『旧事紀』でも『日本書紀』と同様に、熊野の御碕か粟嶋から常世の国へ渡ったとする*6。
なお、『古事記』や『古語拾遺』には何処から常世の国へ渡ったのかの記載はない。
神功皇后が三韓征伐に際して安産祈願をしたとの伝承や、後醍醐天皇が正慶元年/元弘2年(1332年)に隠岐に配流された際に御親拝したとの伝承がある*7。
社殿は永正年間(1504年〜1521年)、元禄2年(1689年)、大正11年(1922年)の3度も火災に遭っているが、その度に再建されている*8。
先述の『噫炎上せる粟嶋神社』には大正11年の炎上前の粟嶋神社社殿と、大正12年の炎上後の仮社殿の写真も掲載されている*9。
木祠
本殿真後ろの道を下っていくと、途中左側に木祠がある。
朽ちかけているが、今回行った際はお賽銭の1円玉が2枚置かれていた。
木祠のある道の先まで行くと、神社の背後に控える中海を臨むことができる。
手前に見えるのは米子水鳥公園だ。
第一鳥居近くの参道にあった看板によれば、中海は200種以上の鳥類が生息する鳥獣保護区であるらしい。
荒神宮蝮蛇神祠
階段の途中、斜面に伸びる獣道のような小道の途中に「荒神宮蝮蛇神祠」と書かれた看板が地面に立てられている。
それに従い小道を進んで行くと、道の両側に石祠があるのが見えてくる。
右側の祠はとても新しく、お供え物やお賽銭も置かれていた。
これが荒神宮蝮蛇神祠なのだろう。
左側の祠は古く、中央部は崩れてしまったのだろうか、屋根だけが台座に乗せられている。
お賽銭が置かれていることからして、恐らく旧荒神宮蝮蛇神祠だと思われる。
荒神宮
蝮蛇神祠へ行く小道よりもう少し下の階段途中から、荒神宮へと向かうことができる。
鳥居をくぐって少し進むと拝殿と本殿が鎮座している。
『噫炎上せる粟嶋神社』によると、荒神宮の御祭神は須佐之男命であるらしい*10。
また同書によると荒神宮は古来より粟嶋神社の末社であり山頂に鎮座していたが、本殿も焼失した永正年間の尼子対毛利の戦いで同時に焼失し、慶長6年(1601年)に至って山腹に移営(移設して造営の意だろうか)したとのこと*11。
御岩宮祠(大岩宮、大岩神祠)
忠魂碑横の道を進んで行くと、そのうち道が二股に分かれる。
右に行けば御岩宮祠、左に行けば八百姫宮だ。
更にその先の台座の上に、御岩宮祠が鎮座している。
看板には「御岩宮祠」、扁額には「大岩宮」、由緒を書いた柱には「大岩神祠」とあるが全てこの石祠を指している。
御岩宮祠の御祭神は、「お岩さん」という難病苦難の守り神だ。
更に岩=石、石(せき)=咳に通じるということで、咳封じの神としても信仰があるらしい。
御神体の岩は、少彦名命がかつて粟嶋に来た際に舟を降りた初上陸地点と伝わっている*12。
御岩宮祠の向かって左後にも祠らしきものが鎮座しているが、詳細不明だ。
もしかすると旧御岩宮祠だろうか。
御岩宮祠の階段には蛇が蠢いていた。
粟嶋神社境内には蝮蛇神祠があるのでピッタリではある。
勿論、その蛇は蝮(マムシ)ではなかった。
八百姫宮
八百姫宮は「八百姫」と呼ばれる八尾比丘尼を祀る社だ。
看板によれば、粟嶋神社の氏子で誤って人魚の肉を口にしてしまい不老不死になってしまった娘がこの世を儚み、この洞窟に800歳で息絶えるまで籠っていた、とされているらしい。
御利益は勿論、長寿であるとのこと。
なお、洞窟自体が八百姫宮なのか、横にある石祠が八百姫宮なのかはよく分からなかった。
因みに米子市公民館のHPによると、かつては八百姫宮までの道は整備されておらず、田圃の中の畦道を通って参拝していたらしい*13。
なお、『万葉集』の巻3第355番の生石村主真人(おひしのすぐりまひと)の和歌に、「大汝少彦名のいましけむ志都の岩屋は幾世経ぬらむ」というものがある*14。
そしてこの洞窟はその志都の岩屋の伝承地の1つとなっているらしい。
調べてみると、どうやら伝承地は島根県や兵庫県、和歌山県など各地にあるようだ。
社日塔
第一鳥居〜第二鳥居間の参道には、社日塔(他の地域では地神碑などとも言う)が建てられている。
社日は春と秋の年2回ある土地神の祝祭日で、かつては五穀豊穣を願って祭が行われた。
この社日塔は5面に9柱の神名が刻まれている。
なお米子市HPによると、旗ヶ崎地区や青木神社にも同様の社日塔が存在するらしい*15。
まず天照大御神だ。
その左の面に刻まれるのは素盞嗚命と保食ノ命。
続いては大穴牟遅命と少毘古那命。
最後は埴安姫命と猿田彦大神となっている。
灯籠
社日塔の横には灯籠が立っている。
灯籠は社日塔と合体したような形になっており、柱の部分が六角柱で全面に神名が刻まれている。
その左側は金毘羅大權現の神名が刻まれている。
これは金刀比羅宮の御祭神の大物主神だろう。
次は粟嶋大明神だ。
これは粟嶋神社の御祭神の少彦名命だろう。
次は杵築大明神だ。
これは杵築大社、すなわち出雲大社の御祭神の大国主大神だろう。
次は勝田大明神だ。
これは米子市内最古の神社の1つである勝田神社の御祭神の天之忍穂耳命だろうか*16。
最後は大山大智明權現だ。
これは大山町の角磐山大山寺の神仏習合時代の御本尊の大智明権現のことと思われる*17。
【粟嶋神社】
住 所:鳥取県米子市彦名町1404
御祭神:少彦名命、大己貴命、神功皇后 外5柱
社祠等:八百姫宮(御祭神:八百姫)
大岩神祠(御祭神:お岩さん)
外多数
創 建:不詳
H P:米子観光ナビ「粟嶋神社」
脚注
*1:粟嶋神社『粟嶋神社略記』(粟嶋神社、発行年不明)内面
*2:鳥取県神職会編『鳥取県神社誌』(鳥取県神職会、1934年)450頁
*3:松田真一『噫炎上せる粟嶋神社』(松田真一、1925年)2頁(国会図書館デジタルコレクションでは20コマ)
*5:坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』(岩波文庫、1994年)104頁
*7:松田、前掲書、30頁(国会図書館デジタルコレクションでは34コマ)
*8:同書、27〜31頁(国会図書館デジタルコレクションでは32〜34コマ)
*9:同書、冒頭写真頁(国会図書館デジタルコレクションでは6コマ)
*10:同書、29頁(国会図書館デジタルコレクションでは33コマ)
*11:同書、29頁(国会図書館デジタルコレクションでは33コマ)
*12:粟嶋神社、前掲書、内面
*13:米子市公民館HP「27年7月15日 粟島神社夜祭り」参照。