住吉神社
住吉神社社殿
住吉神社は御祭神として、天照大神・田霧姫神・底筒男神・中筒男神・表筒男神・神功皇后・武内宿禰命の7柱を祀る。
創建は保元2年(1157年)で、後白河天皇が藤原俊成に勅して摂津国の住吉大社から和歌の神として勧請したと伝わる。
かつては和歌所(勅撰和歌集編纂の際に設置される宮中の臨時部門)の別当が奉斎していたが応仁の乱で荒廃、のち永禄11年(1568年)に正親町天皇により現在地に遷座し復興したようだ。
住吉神社は御祭神として、天照大神・田霧姫神・底筒男神・中筒男神・表筒男神・神功皇后・武内宿禰命の7柱を祀る。
創建は保元2年(1157年)で、後白河天皇が藤原俊成に勅して摂津国の住吉大社から和歌の神として勧請したと伝わる。
かつては和歌所(勅撰和歌集編纂の際に設置される宮中の臨時部門)の別当が奉斎していたが応仁の乱で荒廃、のち永禄11年(1568年)に正親町天皇により現在地に遷座し復興したようだ。
前回の記事で書いた松原道祖神社から200mほど西に、五條天神宮が鎮座している。
正面の境内入口は恐らく西洞院通側だが、松原通側にも境内入口があり、こちらには「皇國醫祖神五條天神宮」や「筑紫天滿宮」と書かれた石柱が立っている。
五條天神宮は大己貴命・少彦名命・天照大神の3柱を祀る。
創建は平安遷都の延暦13年(794年)で、桓武天皇の勅命により、弘法大師が大和国宇陀郡から天神(天津神)を勧請したことに始まるとされている*1。
かつては天使の宮や天使社という名称だったが、後鳥羽天皇により五條天神宮と勅称された*2。
後に応仁・天明・元治の3回(恐らく応仁の乱・天明の大火・蛤御門の変)も火災に遭ったとのことで、その度に再建されたようだ*3。
なお『義経記』では、弁慶が牛若丸が初めて出会う直前に願掛けのため参拝した場所が五條天神宮ということになっている*4。
なお境内の掲示によれば、実は五条大橋は鴨川に架かっていた五条大橋(現在の松原橋)ではなく、五條天神宮の東を流れていた西洞院川(現在は暗渠であるらしい)に架かる橋だったとの伝説があるようだ。
なお、本殿裏手には多数の境内社が祀られている。
本殿の周囲を左から奥へと進むと、一番先に現れるのは筑紫天満宮だ。
天満宮なので当然ながら菅原道真公を祀ると思われる。
筑紫天満宮は二条寛斉(検索したが不詳、五摂家の二条家の人物か)が天保15年(1844年)に太宰府より御分霊を勧請し、遥拝所として使用されていたらしい*5。
なお、筑紫天満宮は洛陽天満宮二十五社にも数えられている*6。
松原道祖神社の御祭神は猿田彦命と天鈿女命の夫婦神だ。
掲示によれば、御利益は旅行守護・厄災除け・夫婦円満・縁結び・商売繁盛などであるらしい。
かつては五条道祖神と呼ばれたようだが、これは現在の松原通が平安時代には五条大路であったことに由来する。
創建は平安時代に遡るという。
古くから祀られていただけあって、鎌倉時代前期頃成立の『宇治拾遺物語』に「道命於和泉式部許読経五条道祖神聴聞事」という話が収録されている*1。
これは「大納言・藤原道綱の息子である道命阿闍梨が和泉式部と寝た後、目が覚めたので読経した。読経が終わった頃にふと気が付くと、誰かがその様子を見ていた。誰か尋ねたところ、それは翁の姿をした五条道祖神であった。実はこの日は道命阿闍梨が身を清めず読経したため、普段読経を聴きに来ている梵天・帝釈天等の高位の神々が来ず、それにより低位の五条道祖神が近くで読経を聴くことができた」という伝説だ。
その後もずっと祀られていたようだが、明治17年(1884年)には町会でもう祀れないということで南不動堂町の道祖神社に遷座し、この松原道祖神社は廃社になってしまったらしい*2。
ただこの際に遷座はしたものの社は残っており、その後も神社あった土地を持つ住民が祀り続けたため、現在も松原道祖神社が残っているということのようだ*3。
また戦前に神社の土地を持つ住民が遷座しようとしたところ夢の中でお告げががあり、「今は時ではないからその時を待て」との内容だったため待っていると、ちょうど先の大戦で強制疎開となったと伝わっている*4。
【松原道祖神社】
住 所:京都府京都市下京区藪下町34付近
御祭神:猿田彦命、天鈿女命
社祠等:無し
創 建:平安時代
H P:京都観光Navi「松原道祖神社」