<2023年7月 記事内容改訂>
畝傍山東北陵
前回の記事で書いた橿原神宮の北に、初代天皇とされる神武天皇の陵がある。
入口の橋を渡り、木々に囲まれた山道を進む。
静かな空間に木々のさざめきと参拝者の靴音だけが響いている。
この日は建国記念の日だったが、思ったよりも参拝者が少なく、賑わっていた橿原神宮とは対照的な印象を受けた。
かつて皇国史観が全盛だった戦時中は、建国の英雄の陵ということで物凄い参拝客が来ていたようだ。
昭和17年(1942年)の参拝者などは1月が38.8万人、2月が18.2万人、3月が24.4万人、4月が22.6万人、5月が17.0万人、6月が7.9万人となっていて、半年間に130万人弱が参拝した計算であり途轍もなく盛況であったらしい事が分かる*1。
参道の先には開けた場所があり、奥の生い茂った森に向かって鳥居が立っている。
これこそが畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)だ。
流石に隅々までよく管理されていて、荘厳で清浄な雰囲気が漂っている。
宮内庁によれば、陵の形式は円丘とのこと*2。
神武天皇は『日本書紀』と『旧事紀』によると127歳、『古事記』によると137歳で崩御したとされる*3*4*5。
その陵ついては、『日本書紀』『旧事紀』『延喜式』には「畝傍山東北陵」と記されている*6*7*8
また、『古事記』では「畝火山の北の方の白檮の尾の上」と記されている*9。
名称は一部では「四条ミサンザイ古墳」とも呼ばれることもあるらしい*10。
但し、ここがそもそも古墳か否かは定かではないため、この呼称は微妙な所である。
なお文久3年(1863年)までは、第2代・綏靖天皇陵に現在治定されている「塚山」が神武天皇陵だと考えられていた*11。
【畝傍山東北陵】
住 所:奈良県橿原市大久保町
被葬者:神武天皇
H P:宮内庁「神武天皇 畝傍山東北陵」
脚注
*1:京都新聞社編集局・編著『皇陵に祈る』(晴南社、1943年)1〜2頁
*2:宮内庁HP「神武天皇 畝傍山東北陵」参照。
*3:坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』(岩波文庫、1994年)244頁
*5:倉野憲司校注『古事記』[改版](岩波文庫、2007年)103頁
*6:坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』(岩波文庫、1994年)244頁
*7:溝口駒造訓註『旧事紀』(改造文庫、1943年)163頁
*8:藤原時平・藤原忠平『延喜式 第四 』(日本古典全集刊行会、1929年)160頁(国会図書館デジタルコレクションでは86コマ)
*9:倉野憲司校注『古事記』[改版](岩波文庫、2007年)102〜103頁
*10:衆議院HP「第176回国会 質問の一覧」内「陵墓の治定と祭祀に関する質問主意書」参照。