燈蓮寺伽藍堂 -RISING FALCON-

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公所神社と牛頭天王のお宮

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はじめに

今回は平塚市公所の公所神社について。

公所神社


一昨日の記事で書いた道祖神から直線で2kmほど南西、小田原厚木道路の真横に公所神社が鎮座している。
ここの地区名でもある「公所」は「ぐぞ」と読む難読地名だ。
 

社殿



由緒書の掲示によれば、公所神社の創建年は不明ながら南北朝時代には熊野社として古文書に名前が見えるらしいが、色々と記述が謎である*1
慶安2年(1649年)には公所村分村に伴い総鎮守の八劔明神*2を合祀。
 
御祭神は掲示によれば倭建之命・伊邪那美命速玉之男命・予母津事解之男命の4柱となっているが、神奈川県神社庁のHPでは伊邪那美命の代わりに伊邪那岐命が祀られていることになっている。
どちらが正しいのかは不明だ。
 

道祖神



鳥居から社殿に向かう階段の途中からは斜面の途中に出ることが出来る。
そこには道祖神が3柱祀られている。


一番左の道祖神は風化していて、壊れた跡も見える。
建立年月等の詳細は不明。
そもそも道祖神なのか否かが現地では分からなかったが、平塚市博物館が出している平成8年(1996年)に出版された『平塚の道祖神』によれば、これは烏帽子を被った道祖神であるらしい*3


真ん中の道祖神の神名の横には、「おんさげい さめい そばか」という真言が刻まれている。
真言が刻まれた道祖神は初めて見たかもしれない。
この道祖神は先述の『平塚の道祖神』掲載の写真には見当たらない(写真では左右の道祖神が並んで立っている)ので、平成8年以降に新しく建立されたか、何処かから遷されたものと思われる。


一番右の道祖神も建立年月等の詳細は不明。
これも先程の左の道祖神と同じく烏帽子を被った道祖神*4
 

末社



社殿右手の小さな階段を上がると、末社群等が鎮座している場所がある。
左から歌碑(後述)、牛頭天王碑、石祠、神明大神碑、地神社、牛頭天王宮/大神宮、庚申塔となっている。
 
なお鳥居の所の由緒書の掲示にあった「神明大社」と「牛頭天王社」については、この中の牛頭天王碑と神明大神碑のことなのか、又は牛頭天王宮/大神宮のことなのかは分からなかった。
 

歌碑の右にあるのは牛頭天王を祀る碑だ。
牛頭天王祇園精舎の守護神とされ、かつては素盞嗚尊と習合していた神だったが、明治政府の神仏判然令により一応は排斥されたことになっている*5
 

牛頭天王碑の前には石祠が祀られている。
ただ由緒書等も無く、詳細は不明だ。
 

石祠の右側には神明大神を祀る石碑がある。
神明大神とは天照大御神のことだろう。
 

神明大神の右側には地神社が祀られている。
詳細は不明ながら、名前からして恐らく地神が祀られているらしいことは分かる。
 



地神社の右側には牛頭天王宮/大神宮という石祠が祀られている。
中心部の桃型の穴の左側に「牛頭天王宮」、右側に「大神宮」と刻まれている。
牛頭天王宮の方は名前からし牛頭天王が御祭神だろう。
大神宮の方は御祭神不明だが、牛頭天王すなわち素盞嗚尊と対になるとすればやはり天照大御神だろうか。
 


一番右側には庚申塔が祀られている。
塔の前の猿の像がとても可愛らしい。
 

その他諸々


先程紹介した末社群の一番左側には、「奉納」と上部に刻まれた歌碑が立っている。
刻まれているのは「奈こやか尓 ゆ多可尓阿連と *み*の ち可ひてや万寿 神能美まへて」(なごやかに ゆたかにあれと *み*の ちかひてやまず 神のみまへで)、つまり漢字も交えると「和やかに 豊かにあれと *み*の 誓ひて已まず 神の御前で」ということだろうか。
残念ながら、一部は何と書いてあるか分からなかった。
なお上記「奈こやか尓〜」の「神」以外の漢字で書いてある部分は、各漢字を元にした変体仮名*6で記されていることを示している。
なおこの歌碑を読むのには、崩し字に明るい友人H_keiba氏の協力を仰いだ。




社殿近くには、「幸福祈願の樹」という立派な御神木が生えている。
碑文を読む限り明治38年(1905年)に植えられたとのことなので、樹齢は110年を超えている。

道祖神
住 所:神奈川県平塚市公所145
御祭神:倭建之命、伊邪那美命?、伊邪那岐命?、速玉之男命、予母津事解之男命
社祠等:道祖神
    地神社(御祭神:地神?)
    牛頭天王宮/大神宮(御祭神:牛頭天王天照大御神?)
    他多数
創 建:1387年以前
H P:神奈川県神社庁「公所神社」
 

 

脚注

*1:「元中(南朝至徳)四年(一三〇四)」と書いてあるが、南朝年号の方が「元中」で北朝年号の方が「至徳」だとか、そもそも元中/至徳4年は1304年じゃなくて1387年だとか、1304年だとまだ南北朝時代じゃなくて鎌倉時代だとか、色々と突っ込み所が満載だ。

*2:掲示の表記を見る限り、「劔」の左下は「从」ではなく「灬」となっている異体字のようだ。

*3:平塚市博物館資料 No.45 平塚の道祖神』(平塚市博物館、1996年)38〜39頁

*4:同書、38〜39頁

*5:明治元年(1868年)の神仏判然令の中でも名指しで批判されている。

*6:明治以降には仮名の統一の影響であまり用いられなくなった、今現在普通に使われている仮名以外の仮名のこと(稀に蕎麦屋の看板などで見かける「き楚者゛」=「きそば」つまり「生蕎麦」が有名か)。