燈蓮寺伽藍堂 -RISING FALCON-

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国譲りの地・屏風岩と出雲大社境外摂社・因佐神社(速玉社)

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はじめに


前回の記事で書いた下宮の前の道(松江杵築往還というらしい)を北へまっすぐ進んで行くと、右側に屏風岩が見えてくる。

屏風岩



屏風岩は大国主大神と建御雷神が国譲りについて話し合いをしたと伝えられる地だ。
この岩についての伝承がいつ頃からあるのかは分からないが、出雲が神話と地続きの地なのだということを改めて実感させられた。


……のだが、この写真の看板の言うような屏風岩が登場するシーンは、よくよく考えると『古事記』にあっただろうか。
試しに手元にある岩波文庫の『古事記』をめくってみると、国譲りの冒頭の場面では大国主大神は子神の八重言代主神の意見を聞くようにという事しか言っていない*1
では看板にある「古事記より引用」とは一体……?
もしかして自分が知らないだけで、別の底本には載っている話なのだろうか。

因佐神社(速玉社)


屏風岩から更に道なりに進むと、因佐神社(いなさのかみのやしろ)の鳥居が見えてくる。



別名を速玉社と言い、出雲大社の摂社となっている。
因佐神社は延長5年(927年)完成の『延喜式』に記載されている延喜式内社であり、また天平5年(733年)成立の『出雲国風土記』にも「伊奈佐の社」の名で掲載されている*2*3
出雲国風土記』に登場するということは、天平5年以前からこの神社があったと言うことになるだろう。

御祭神は屏風岩の所でも名前が登場した、国譲りの際の使者である建御雷神だ。
御雷神は文献により、その出自が様々に語られる神だ。
日本書紀』では、十握剣で斬られた軻遇突智の血から生まれた甕速日命の後裔(神代上・第5段一書第6)、甕速日神・熯速日神の次に軻遇突智の血から生まれた(同)、甕速日神の子の熯速日神の子(神代下・第9段本文)とされている*4
古事記』では、伊邪那岐命天之尾羽張(伊都之尾羽張)という剣で迦具土神を斬った際に甕速日神樋速日神に次いでその血から生まれた神なので天尾羽張神(伊都之尾羽張神)の子とされ、別名は建布都神・豊布都神だとされる*5
『旧事紀』では、十握剣で斬られた軻遇突智の血から生まれた天尾羽張神(別名:稜威雄走神・甕速日神・熯速日神・樋速日神)の子で、別名は建布都神・豊布都神・鹿島大神・石上布都大神だとされる*6
古語拾遺』では甕速日神の子で、別名は鹿嶋神だとされる*7

【因佐神社(速玉社)】
住 所:島根県出雲市大社町杵築北3006横
御祭神:建御雷
社祠等:無し
創 建:733年以前
H P:出雲大社HP「摂末社」

脚注

*1:倉野憲司校注『古事記』[改版](岩波文庫、2007年)68〜69頁

*2:出雲大社社務所出雲大社由緒略記』[改訂41版](出雲大社社務所、2003年)78頁

*3:武田祐吉編『風土記』(岩波文庫、1937年)133頁

*4:坂本太郎家永三郎井上光貞大野晋校注『日本書紀(一)』(岩波文庫、1994年)42, 116頁

*5:倉野、前掲書、26〜28, 67頁

*6:溝口駒造訓註『旧事紀』(改造文庫、1943年)26頁

*7:斎部広成撰・西宮一民校注『古語拾遺』(岩波文庫、1985年)25〜26頁