燈蓮寺伽藍堂 -RISING FALCON-

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神代より続く出雲大社に参拝

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<2023年6月 記事内容改訂>

はじめに



「海、山、旅のドラマは米子駅から」ということで、米子駅から山陰本線を行く特急やくも号に乗車。


因みに今回の検札印は、伯備線電化40周年記念の記念スタンプになっていた。


出雲市駅からは電鉄出雲市駅へ向かい、一畑電車に乗車。
小さな電車は北松江線大社線へと直通で進んで行く。
20分弱で出雲大社前駅へと到着した。


出雲大社前駅を出ると参道が伸びており、神域入口の鳥居に至るまでは道路の両側に土産物屋や飲食店がズラリと並んでいる。
その途中、俵屋という和菓子店で大国様が腰掛ける俵を模った「俵まんぢう」が売られていたので買ってみた。
これが甘すぎず中々美味しい。


ところでこの日はやけに人が多いと思ったら、なんと出雲駅伝が開催される日だった。
しかもスタート地点が出雲大社の目の前らしい。
それは混んでいるのも当然だ。



歩いている内に、勢溜の大鳥居が見えくる。
これは出雲大社の二の鳥居だ(後述)。

出雲大社

祓社



境内の参道を進むと、下り坂途中の右手に末社の祓社が鎮座している。
祓社は瀬織津比咩神・速開都比咩神・気吹戸主神・速佐須良比咩神の4柱(祓戸四神)を祀る。
祓戸四神は「六月晦大祓」の際の祝詞に登場する罪汚を清める神で、瀬織津比咩神・気吹戸主神・速佐須良比咩神はこの祝詞にしか登場しない*1
なお速開都比咩神だけは、伊弉諾尊伊弉冉尊の子供として『日本書紀』神代上第5段一書第6と『旧事紀』では速秋津日命、『古事記』では速秋津比売神という表記で登場する*2*3 *4

出雲大社参拝時はまず初めに祓社に参拝し、身も心も清めてから本殿に参拝するのが良いとされている*5
なお、この先出雲大社においては参拝時の柏手は全て2礼4拍手1礼となっている。

拝殿


参道を進むと拝殿へと辿り着く。
頭上の巨大な注連縄は迫力がある。
元々の拝殿は昭和28年(1953年)に焼失してしまったため、現在の拝殿が昭和34年(1959年)に再建された*6

本殿及び八束門内摂末社

本殿


拝殿の裏側に八束門がある。
周囲には瑞垣が巡らされていて、この内側に本殿等が鎮座している。

出雲大社の御祭神は大国主大神を祀る。
大国主大神は『日本書紀』神代上第8段本文・『旧事紀』・『古語拾遺』によれば素戔嗚尊の子神、『日本書紀』神代上第8段一書第1と『古事記』では素戔嗚尊の6世孫、『日本書紀』神代上第8段一書第2では素戔嗚尊の7世孫の神とされる*7*8*9*10
神話においては、因幡の白兎、少彦名命との国造り、国譲り等の話で活躍する神であり、また幽界を司る神であるともされている。
また、大国主大神大己貴命大穴牟遅神)・葦原色許男神八千矛神・宇都志国玉神・大国玉神・顕国玉神など多彩な別名を持つ神としても有名だ。

また、本殿内の前室の御客座には天之常立神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・神産巣日神高御産巣日神天之御中主神の5柱が、本殿中央の心御柱近くには和加布都努志命(牛飼神)が祀られている*11

出雲大社の創建は、大国主大神が治める国を天照大御神に譲る代わりに天高く巨大な神殿を造営して大国主大神を祀ったことに始まるとされる。
また、後の世においても出雲大社の神殿は巨大な事で有名であり、天禄元年(970年)に源為憲が著した『口遊』には巨大建造物として「雲太和二京三」(雲太=出雲太郎=出雲国出雲大社が最大、和二=大和二郎=大和国東大寺大仏殿が2番目、京三=京三郎=京の太極殿・八省が3番目)と書かれている*12
千家国造家に伝わる『金輪御造営差図』という中世の文書には神殿を支える柱として大木3本を1つに束ねた柱が9組描かれており、実際に平成12年(2000年)には大木を3本束ねた心御柱や宇豆柱が発掘されている*13

なお神社名は、かつては杵築大社(きつきたいしゃ)と呼ばれていたが、明治4年1871年)に出雲大社(いずもおおやしろ)に改称している*14



因みに本殿は正面が南向きに建てられているが、大国主大神を祀る神座は西向きに設置されている。
そのため、瑞垣の外の西側から大国主大神の真正面で参拝することも可能だ。
掲示によれば、まず本殿正面で参拝し、瑞垣周囲の摂末社を参拝した後に神座正面で参拝すると良いらしい。

門神社(東/西)

瑞垣の内側、八束門の両側には摂社の門神社が2社鎮座している。
御祭神は東が宇治神、西が久多美神を祀っている。
島根県神社庁が昭和62年(1987年)に出した『島根の神々』によれば、宇治神は加茂町(現・雲南市加茂町)の宇能遅神社御祭神の宇能遅比古命という大国主大神と縁が近い神であるらしい(宇能遅比古は『出雲国風土記』によれば須我禰命の子神とされ、その須我禰命は『日本書紀』神代上第8段一書第1に出てくる清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠という素戔嗚尊の子神と同一神であるとのこと。つまり宇能遅比古命は大国主大神の甥神に当たる)*15*16*17
また久多美神は先述の『島根の神々』によれば、『出雲国風土記』の玖潭郷(くたみのさと)に鎮座する久多美社の御祭とのこと*18*19

神魂御子神社(筑紫社)



本殿の西側には摂社の神魂御子神社が鎮座している。
御祭神は、素戔嗚尊の娘神かつ大国主大神の妻神かつ味耜高彦根神・高比売命の母神であり、宗像三女神の1柱でもある多紀理比売命を祀る。
なお、この神魂御子神社は延喜式内社であるらしい*20

神大后神社(御向社)/神魂伊能知比売神社(天前社)



本殿の東側には摂社の大神大后神社(御向社)が鎮座している。
御祭神は、大国主大神根の国へ行った際に最初に応対した素戔嗚尊の娘神であり、大国主大神の正妻となった須勢理比売命を祀る。
なお、この大神大后神社も延喜式内社であるとのこと*21


神大后神社の東には摂社の神魂伊能知比売神社が鎮座している。
御祭神は、大国主大神が八十神の謀略で猪に似せた焼けた大岩により焼き殺された際に、神皇産霊神の使いとして大国主大神を助けて蘇生させたと伝わる蚶貝比売命・蛤貝比売命の2柱の女神だ。
この伝承に基づき、看護の神として崇敬されている。
なお、神魂伊能知比売神社も先述の2社と共に延喜式内社であるとのこと*22

十九社(西)



本殿西側の瑞垣の外に鎮座する長い社殿は、末社の西の十九社だ。
御祭神は掲示には八百萬神とある。
これは陰暦10月の神在月に全国から神々が集う際に宿舎にするためで、普段はその八百萬神の遥拝所となっているとのこと。

氏社(南)



西の十九社の右側には、摂社である南の氏社が鎮座している。
御祭神は宮向宿禰命が祀られている。
宮向宿禰は第17代出雲国造で、允恭天皇から出雲臣の姓を賜った人物とされている。

氏社(北)



南の氏社の右側に鎮座するのは北の氏社で、こちらも摂社だ。
御祭神は出雲国造家の祖神である天穂日命を祀る。

天穂日命(『古事記』では天之菩卑能命、『出雲国風土記』では天乃夫比命)について神話では下記の通り記述されている。
日本書紀』第6段本文によれば、天照大神素戔嗚尊との誓約において、天照大神が頭と腕に巻き付けていた八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいおつのみすまる)を素戔嗚尊が天真名井(現在の真名井の清水とも言われる)で濯いで噛み砕いた際の息吹の霧から2番目に生まれた神で、出雲臣・土師連の祖神とされる*23
同第6段一書第1によれば、同じく誓約において素戔嗚尊が首に掛けていた五百箇御統を天渟名井(別名:去来之真名井)で濯いで食べた際に4番目に生まれた神とされる*24
同第6段一書第2によれば、同じく誓約において素戔嗚尊が持っている剣を天真名井に浮かべ、剣の末端を噛み砕いた際の息吹から1番目に生まれた神とされる*25
同第6段一書第3によれば、同じく誓約において素戔嗚尊が右の髪に巻き付けていた瓊を取って右手で握った際に生まれた神とされる*26
同第7段一書3によれば、同じく誓約において素戔嗚尊が右の髪に巻き付けていた瓊を取って右手で握った際に1番目に生まれた神で、出雲臣・武蔵国造・土師連の祖神とされる*27
同第9段本文によれば、葦原中国平定に際して大己貴神大国主大神)の元へ派遣されるも現地に留まり復命しなかったとされる*28
同第9段一書第2によれば、高皇産霊尊から大己貴神への勅の中で、大己貴神の祭祀を司る神に任命されている*29
古事記』によれば、天照大御神建速須佐之男命の誓約において、天照大御神が右の髪に巻き付けていた珠を素戔嗚尊が噛み砕いた際の息吹の霧から生まれた神であり、葦原中国平定に際して大国主大神の元へ派遣されるも現地に留まり復命しなかったとされる*30
『旧事紀』によれば、天照大神素戔嗚尊の誓約において、天照大神が右の髪に巻き付けていた八坂瓊之五百箇御統を素戔嗚尊が右手で握った際に生まれた神とされ、葦原中国平定に際して大国主大神の元へ派遣されるも現地に留まり復命しなかったとされ、出雲国造の祖神であるとされる*31
出雲国風土記』によれば、天津日子命を伴って天より降りてきたとされる*32
祝詞の『遷却祟神』によれば、葦原中国平定に際して派遣されるも復命しなかったとされる*33
祝詞の『出雲国造神賀詞』によれば、葦原中国平定に際して高御魂命と神魂命の命で地上に派遣され巡見を行い、更に自分の子の天夷鳥命と付き添いで布都怒志命を天降りさせて平定を行わせたとされる*34

素鵞社



本殿の真後には素鵞社という摂社が鎮座している。
御祭神は素戔嗚尊を祀る。
掲示には「奇稲田姫を御妻として大國主大神をお生みになられました」とあるので、出雲大社的には素戔嗚尊大国主大神の父神としているようだ。

釜社



本殿東側の玉垣の外側には、末社の釜社が鎮座している。
御祭神は宇迦之魂神を祀る。
古伝新嘗祭という祭典においては、釜社から拝殿に御釜を移して五穀豊穣と来年の豊作を祈る御釜神事が行われる*35

十九社(東)



釜社の右側には末社の東の十九社が鎮座している。
先述の西の十九社と同じく御祭神は八百萬神で、普段は八百萬神の遥拝所だ。

野見宿禰神社



勢溜の大鳥居から下り参道を進んで行くと、境内を流れる素鵞川に架かる祓橋がある。
その橋の手前から左に入る脇道があるので進むと、相撲場を越えた辺りに野見宿禰神社が鎮座している。

ここはその名の通り野見宿禰命を御祭神としている。
野見宿禰垂仁天皇の御代の人物で、当麻蹴速と日本初の相撲を行い勝利したと伝わる。
また野見宿禰は土師臣及びその後裔の菅原氏・大江氏の祖とされており、更に出雲においては第13代出雲国造の襲髄命と同一人物とされている。



野見宿禰神社には狛犬は置かれておらず、代わりに相撲の廻しを着けた狛兎が置かれていた。

杵那築森




祓橋を渡って右手の小道を進んで行くと、木々に向かって鳥居だけが立っている杵那築森(きなつきのもり)という場所に辿り着く。
掲示によれば、杵那築森は神々が大国主大神の神殿を建てた際に使用した杵を埋めた地であると伝えられているとのこと。
なお『出雲大社由緒略記』によると、かつては水田の中の小社であったらしい*36
また『出雲大社由緒略記』を読む限り、末社6社に含まれているようなので、末社という扱いなのだろう*37

その他

鳥居

出雲大社の参道には、鳥居は4つ存在する。




一の鳥居は旧JR大社駅から500mほど北の堀川に架かる宇迦橋の袂にあり、「宇迦橋の大鳥居」と呼ばれる。
大鳥居は高さ20mを超える巨大なものだ。
初代の木造の宇迦橋は大正3年(1914年)、大鳥居は大正4年(1915年)にそれぞれ完成しており、これらは明治45年(1912年)に大社駅が開業したことに伴い設置された。
なお、今回行った際は残念ながら大鳥居は補強工事中、橋は架け替え中だった。


二の鳥居は神域の入口にあり、「勢溜の大鳥居」と呼ばれる。
この鳥居が出雲大社では恐らく一番有名な鳥居だろう。
記事冒頭でも書いた通り、出雲駅伝のスタート地点にもなっている場所だ。
なお現在の大鳥居は、平成30年(2018年)に新たに建て替えられたものだ。


三の鳥居は祓社の先、松の参道の手前にある。
ここの松並木は歩行禁止のため、左右の脇道を通る事になる。
なお、今回は写真を撮り忘れたので上の写真は2016年に参拝した時のものを載せている。


四の鳥居は拝殿の手前にある銅鳥居だ。
そこまで大きくはないが、年季が入っており中々迫力がある。



因みに大正〜昭和初期の頃に竹野屋という旅館が発行した『出雲大社御案内』という案内書を見ると松の参道の鳥居は掲載されていないので、後の時代に立てられたものだろう。
なお案内書が大正〜昭和初期のものと判断したのは、先述の大正4年(1915年)に立てられた大鳥居が描かれていて、かつ昭和5年(1930年)に廃止された一畑電鉄の鳶ヶ巣駅が載っていることによる。
またこの頃は宇迦橋の大鳥居が「新大鳥居」、勢溜の大鳥居が「旧大鳥居」と呼ばれていたのが分かって面白い。
余談ながらこの竹野屋旅館、ホームページを見ていたらシンガーソングライターの竹内まりやの実家だと知り、とても驚いた*38

神馬・神牛舎




拝殿の斜め向かいには神馬と神牛が祀られている。
像を撫でると、神馬は子宝と安産、神牛は学力向上のご利益があるとされているようだ*39

御神像





銅鳥居の手前の参道右側には「ムスビの御神像」という像が立っている。
これは大国主大神が自らの幸魂と奇魂に出会う場面を像にしたものであるらしい。
中々迫力があり、どの角度から見ても見事な構図なのが素晴らしい。


手水舎の近くには「御慈愛の御神像」が立っている。
これは痛めつけられた因幡の白兎を慈しむ場面を像にしたものだ。

出雲大社
住 所:島根県出雲市大社町杵築東195
御祭神:大国主大神(御神座)
    別天神5柱(御客座)
    牛飼神(心御柱近く)
社祠等:御向社(御祭神:須勢理比売命)
    筑紫社(御祭神:多紀理比売命)
    外多数
創 建:神代
H P:出雲大社HP

脚注

*1:千田憲編『祝詞・寿詞』(岩波文庫、1935年)36頁

*2:坂本太郎家永三郎井上光貞大野晋校注『日本書紀(一)』(岩波文庫、1994年)40頁

*3:溝口駒造訓註『旧事紀』(改造文庫、1943年)23頁

*4:倉野憲司校注『古事記』[改版](岩波文庫、2007年)24頁

*5:出雲大社HP「摂末社」参照。

*6:出雲大社HP「拝殿」参照。

*7:坂本・家永・井上・大野、前掲書、94, 98頁

*8:溝口、前掲書、77頁

*9:斎部広成撰・西宮一民校注『古語拾遺』(岩波文庫、1985年)22頁

*10:倉野、前掲書、46頁

*11:出雲大社HP「御本殿」参照。

*12:源為憲『口遊』(風月荘左衛門、1807年)22〜23頁(国会図書館デジタルコレクションでは14コマ)

*13:出雲大社HP「遷宮の歴史」参照。

*14:國學院大學HP「出雲大社(杵築大社)」参照。

*15:島根県神社庁『島根の神々』(島根県神社庁、1987年)54〜57頁

*16:武田祐吉・編『風土記』(岩波文庫、1937年)165頁

*17:坂本・家永・井上・大野、前掲書、94頁

*18:島根県神社庁、前掲書、112〜113頁

*19:武田、前掲書、124頁

*20:出雲大社社務所出雲大社由緒略記』[改訂41版](出雲大社社務所、2003年)72頁

*21:同上

*22:同上

*23:坂本・家永・井上・大野、前掲書、64〜66頁

*24:同書、68頁

*25:同書、72頁

*26:同書、72頁

*27:同書、88頁

*28:同書、111〜112頁

*29:同書、138頁

*30:倉野、前掲書、37〜38, 62〜63頁

*31:溝口、前掲書、41, 60, 254頁

*32:武田、前掲書、86頁

*33:千田、前掲書、50頁

*34:同書、54〜55頁

*35:出雲大社HP「古傳新嘗祭」参照。

*36:出雲大社、前掲書、83頁

*37:同書、71頁

*38:竹野屋HP「竹野屋の歴史」参照。

*39:出雲観光ガイドHP「出雲大社」参照。