燈蓮寺伽藍堂 -RISING FALCON-

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鳥取島根の旅ラストは出雲大社境外摂社・阿須伎神社(阿式社)

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はじめに

今回で2022年鳥取・島根巡りの一連の記事もラスト。
また、出雲大社の境内境外摂末社も全て参拝したはずだ。


前回の記事で書いた出雲井社の辺りから、国道431号を2kmほど東へ進み、阿式谷川と交わる所で左折する。



そのまま山に向かって進むと、出雲大社境外摂社にして延喜式内社の阿須伎神社の鳥居が現れる。

阿須伎神社

阿須伎神社社殿





阿須伎神社は別名を阿式社(おとみのやしろ)という*1
阿須伎神社の創建年は分からないが、延長5年(927年)完成の『延喜式』にも記載のある延喜式内社であり、また天平5年(733年)完成の『出雲国風土記』にも記載のある神社だ。
なお『出雲国風土記』の出雲郡の記述では阿受伎社・阿受枳社・阿受支社の表記で神祇官社・非神祇官社合わせて39社も登場している。
しかしかつてはこのように一大勢力だったらしいが、現在ではここの阿須伎神社に38社が合祀されてしまったと伝わっている。
なお、38社は出雲大社に遷されたとする伝承もあるようだが、詳細は不明*2
阿須伎神社の御祭神は主祭神が阿遅須伎高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)、相殿神五十猛命天稚彦命・素盞嗚命・下照姫命・猿田彦命伊邪那岐命天夷鳥命・稲背脛命・事代主命・天穗日命の10柱を祀る。

阿遅須伎高日子根命については神話において以下の通り記述されている。
日本書紀』神代上第9段本文と同第9段一書第1によると、味耜高彦根神は親友の天稚彦の葬儀の際に味耜高彦根神の容貌が天稚彦に似ていたために天稚彦が実は生きていたと勘違いされ、死者と間違われたことに憤慨し、大葉刈(神戸剣)又は十握剣で喪屋を斬り伏せたとされる*3
古事記』によると、阿遅鉏高日子神(阿遅志貴高日子根神)は大国主神多紀理毘売命との子であり別名を迦毛大御神(かものおおみかみ)といい、紀と同様に親友の天若日子の葬儀の際に天若日子と間違われたことに憤慨し、十掬剣で喪屋を斬り伏せたとされる*4
『旧事紀』によると、味耜高彦根神(味鉏高彦根神)は大己貴神大国主神)と田心姫命との子であり葛上郡の高鴨社(捨篠社)に祀られ、紀と同様に親友の天稚彦の葬儀の際に天若日子と間違われたことに憤慨し、大葉刈という十握剣で喪屋を斬り伏せたとされる*5
出雲国風土記』によると、葛城の賀茂社の御祭神であり、塩冶毗古命の父であるとされる*6

五十猛命素戔嗚尊の子で、新羅に渡ったり、大八洲国中に樹木を植えたと伝わる神だ(詳細は出雲大社神楽殿の記事天夷鳥命社・荒神社の項目を参照)。

天稚彦命については神話において以下の通り記述されている。
日本書紀』神代上第9段本文によると、天稚彦は天国玉の子であり、葦原中国平定のために高皇産霊尊の命で派遣されるも顕国玉(大国主神)の娘の下照姫を妻として復命せず、これを怪しんだ高皇産霊尊が地上へ派遣した雉を天稚彦はかつて賜った矢で射殺(その矢は天上まで飛んでいった)、血の付いた矢を見た高皇産霊尊が「天稚彦は国神と戦をしているのだ」と考えて矢を地上に投げ返したところ、その矢が天稚彦に直撃して死亡したとされる*7
同第9段一書第1によると、葦原中国平定のために天照大神の命で派遣されるも多くの国神の娘を妻として8年間復命せず、これを怪しんだ天照大神が地上へ派遣した雉を天稚彦はかつて賜った矢で射殺(その矢は天上まで飛んでいった)、矢を見た天神は天稚彦が矢を悪心で射っていた場合は災難に遭うよう呪って矢を地上に投げ返したところ、その矢が天稚彦に直撃して死亡したとされる*8
同第9段一書第6によると、高皇産霊尊はかつて葦原中国に派遣した天稚彦が復命しない事について、強い国神と戦をしているからだと考えて雄雉を派遣したが天に戻らず、続いて雌雉を派遣したところ天稚彦に射られてしまったとされる*9
古事記』によると、天若日子は天津国玉の子であり、葦原中国平定のために高御産巣日神天照大御神の命で派遣されるも大国主神の娘・下照比売を妻として8年間復命せず、理由を聞くために天照大御神が地上へ派遣した雉を天稚彦はかつて賜った矢で射殺(その矢は天上の天照大御神と高木神(高御産巣日神)の所まで飛んでいった)、矢を見た高木神は天若日子が矢を悪心で射っていた場合は災難に遭うよう呪って矢を地上に投げ返したところ、その矢が天若日子に直撃して死亡したとされる*10
『旧事紀』によると、天稚彦天津国玉神の子であり、葦原中国平定のために高皇産霊尊の命で派遣されるも大国玉神(大国主神)の娘の下照姫を妻として8年間復命せず、これを怪しんだ天照大神高皇産霊尊が地上へ派遣した雉を天稚彦はかつて賜った矢で射殺(その矢は天上の天照大神高皇産霊尊の所まで飛んでいった)、血の付いた矢を見た高皇産霊尊天若日子が矢を悪心で射っていた場合は災難に遭うよう呪って矢を地上に投げ返したところ、その矢が天若日子に直撃して死亡したとされる*11
摂津国風土記逸文によると、天稚彦は天探女と共に天磐船で天降りしたとされる*12
祝詞の『遷却祟神』によると、天若彦は葦原中国平定のために派遣されるも復命せず、高津鳥の殃(天罰)により死亡したとされる*13

下照姫命は先述の通り天稚彦命の妻だ(詳細は三歳社の記事を参照)。

天夷鳥命天穂日命の子で、天降りして葦原中国を平定した出雲国造家第2代の神だ(詳細は出雲大社神楽殿の記事天夷鳥命社・荒神社の項目を参照)。

稲背脛命は国譲りの際に事代主神の元への使者を務めた神だ(詳細は大穴持伊那西波岐神社の記事を参照)。

事代主命大国主神の子で、国譲りに際して重要な役割を果たした(詳細は三歳社の記事を参照)。

天穗日命は天照大神素戔嗚尊の誓約の際に誕生した神で、葦原中国平定の際に大国主神の元へ派遣された神だ(詳細は出雲大社の記事の氏社(北)の記事を参照)。

本殿両脇の境内社(詳細不明)



本殿玉垣内の左右には、詳細不明の境内社が建っている。
詳細不明だが、もしかすると随神が祀られているのかもしれない。

木山社・金比羅



拝殿の右側に、木山社と金比羅社が並んで鎮座している。

木山社


木山社は病気平癒の神が祀られるらしいが創建年は不明。
大社町史』によれば、御祭神は木山神社分霊を祀るとのこと*14
木山神社というと、日本最古の牛頭天王の1つとして有名な岡山県の木山神社のことだろうか*15

金比羅


金比羅社は交通安全の神を祀っている。
大社町史』によれば御祭神は金比羅宮分霊とのことなので、大物主神崇徳天皇を祀るのだろうか*16

出雲御山神社



境内左側には、冒頭に貼った看板にも書かれていた出雲御山神社の遥拝所が鎮座している。
創建年や御祭神などは不明。



但しここはあくまでも遥拝所であるらしい。
では本社はどこなのかと思い、神社に隣接する事務所にお尋ねした所、道なりに少し進んだ先にあるとのことだった。
阿式谷川に架かる阿式大橋の先なのかもしれないが、時間がなかったため今回参拝は断念した。


また、出雲御山神社の横には丸い力石も置かれていた。

稲荷社・塞の神・天神社


境内左奥、本殿の左側辺りに稲荷社があり、その横に塞の神と天神社が祀られている。

稲荷社


稲荷社は倉稲魂命を祀る*17
看板によれば、開運に御利益があるとのこと。

塞の神


稲荷社の横にある石祠が塞の神だろう。
祠の中には石に彫られた御神像が祀られている。
看板によれば行旅と耳に御利益があるらしい。
大社町史』には猿田彦命を祀る才神社というのが載っているが、これが塞の神のことだろうか*18

天神社


この木の扉の付いた石祠が天神社だろう。
看板には「学問の神」とあるので、菅原道真公を祀るものと思われる。

社稷




稲荷社の後方には社稷神が祀られている。
掲示によれば社稷神は国家・村の発展と農業守護の神とのことで、もしかすると地神碑(社日塔)のように春秋の農村の祝祭に関する神なのかもしれない。
中央には天照大御神、そして右から大己貴神・稲倉䰟神(倉稲魂命)・土御祖神・少彦名神の名が刻まれており、ここでの社稷神というのはこの5柱の神々の総称であるらしい。

上ゲ荒神



社稷神の後方には、石碑に刻まれた上ゲ荒神が祀られている。
石碑は真ん中で折れているが、倒れたのかもしれない。

荒神社・水神社・境内社(詳細不明)



上ゲ荒神の横の階段を上ると、荒神社・水神社・詳細不明の境内社が並んで建っている。

荒神


階段を上がって真正面にあるのが「荒神」と彫られた大岩で、これが荒神社ということなのだろう。
大社町史』によれば、御祭神は須佐之男命とのこと*19

水神社?


荒神社の左側に小さな岩が祀られている。
特に文字も刻まれていないが、これが水神社だろうか。

境内社(詳細不明)


荒神社の右側には、特に何も書かれていない朽ちかけの社殿が建っている。
鳥居も倒壊しており、もしかすると今は何も祀られていないのかもしれない。
鳥居の色からすると、もしかしたら今は下にある稲荷社が前はここに祀られていたのかもしれない。
或いは『大社町史』に記載のある、大歳神と天照大神を御祭神とする三歳社だろうか*20

帰京


最後は出雲空港から出発。
フライト前に余りにも空腹だったので、剣の形の蒲鉾が乗った「スサノオラーメン」なる如何にもな観光地ラーメンを啜った。

【阿須伎神社】
住 所:島根県出雲市大社町遙堪1473
御祭神:阿遅須伎高日子根命 外10柱
社祠等:出雲御山神社
    木山社
    金比羅
    外多数
創 建:733年以前
H P:出雲大社HP「摂末社」

脚注

*1:出雲大社社務所出雲大社由緒略記』[改訂41版](出雲大社社務所、2003年)75~76頁

*2:大社町編集委員会編『大社町史 下巻』(大社町、1995年)446~447頁

*3:坂本太郎家永三郎井上光貞大野晋校注『日本書紀(一)』(岩波文庫、1994年)116, 126〜128頁

*4:倉野憲司校注『古事記』[改版](岩波文庫、2007年)58, 66頁

*5:溝口駒造訓註『旧事紀』(改造文庫、1943年)62, 88頁

*6:武田祐吉編『風土記』(岩波文庫、1937年)90, 144頁

*7:坂本・家永・井上・大野、前掲書、112〜114頁

*8:同書、124〜126頁

*9:同書、154頁

*10:倉野、前掲書、63〜65頁

*11:溝口、前掲書、60〜61頁

*12:武田、前掲書、370頁

*13:千田憲編『祝詞・寿詞』(岩波文庫、1935年)50頁

*14:大社町編集委員会、前掲書、446頁

*15:岡山県神社庁HP「木山神社」参照。

*16:金刀比羅宮HP「金刀比羅宮のご紹介」参照。

*17:大社町編集委員会、前掲書、446頁

*18:同上

*19:同上

*20:同上