はじめに
今回は、嵐山に鎮座する蔵王大権現について。
蔵王大権現
嵐山といえば京都を代表する観光地だ。
コロナ禍の現在はともかく、普段なら桂川にかかる渡月橋は人で溢れ返るほどの賑わいを見せている。
そんな桂川の南岸、嵐山モンキーパークの近くに鳥居が建っている。
扁額には「藏王大權現」と旧字体でその名が刻まれている。
この鳥居の向こうに、蔵王大権現*1を祀る社があるらしい。
なお『旧都巡遊記稿』によれば、この蔵王権現を勧請した社には木守明神と勝手明神という夫婦神を祀るとの記述がある*2。
本来ならこの鳥居を越えて社まで参拝したいところだが、生憎と通行止めらしい。
完全に憶測だが数年前の台風で山道が崩れるなどしたのではないかと思う。
やむを得ないので鳥居の位置から遥拝した。
自分がこの社のことを知ったのは、北尾鐐之助という人が書いた『近畿景観 第三篇 京都散歩』という本を読んだからだ。
以下の様な記述がある。
小橋から川に沿って少し行くと、左へ入る溪谷があって華表が立っている。そこから、谷に沿って急な坂を四、五丁も登ると、右に折れ、更に前山と後山との間の凹みを暫く登って行くと、行きつくしたところに、小さな蔵王権現の祠がある。
北尾鐐之助『近畿景観 第三編 京都散歩』(蘭書房、1954年)71頁
文中の「華表」は「とりい」と振り仮名が振ってあり、そのまま「鳥居」のことを示している。
この本によれば、蔵王大権現の鳥居から右に左に山道を進んだ先に社があるらしい。
読んだ限りでは、鳥居から社はかなり遠そうだ。
また由緒については、
蔵王権現の社については、むかし亀山天皇が、吉野からサクラの移植を企てられたとき、サクラは権現の神木だといって吉野できかなかったので、やむなく、まず権現の勧請を先きにして、それから後でサクラを移した。その当時は、大悲閣東方の段上にあったのだが、その後、戸無瀬滝の上に形ばかりのいまのものが残ったのであった。
同上
との記述がある。
どうやら亀山天皇が吉野の桜を嵐山に植えるために、(恐らく吉野の金峯山寺から)蔵王大権現を勧請したことによるらしい。
因みに林野庁の京都大阪森林管理事務所が出している「嵐山国有林について」というPDFの12頁に「13世紀末:亀山上皇が吉野からサクラ数百株を移植」と書かれている。
さらに同PDFの26頁には蔵王大権現の社殿の写真も載っている。
なお、『京都散歩』は亀山天皇、林野庁のPDFは亀山上皇としているので、「亀山天皇」が天皇在位中(1259〜1274年)の話なのか上皇になってから(1274年〜)の話なのかはよく分からない。
まあ上の林野庁のPDFには13世紀末とあるので、恐らく上皇になってからだろうとは思う。
【蔵王大権現】
住 所:京都府京都市西京区嵐山元録山町
御祭神:蔵王大権現 又は 木守明神、勝手明神
社祠等:不明
建 立:13世紀末
H P:京都大阪森林管理事務所「嵐山国有林について」(26頁)